神奈川・茅ヶ崎の児童養護施設=癒しのための巣づくり

『犬を連れたヴィエル弾き』

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20151102

 

犬を連れたヴィエル弾き泣いているのか笑っているのか。

皺深くひしゃげた顔。口を半開きにしているのは歌っているのか。つむった目は盲目だからだろうか。
ちょっと首をかしげてこちらを向いているその男は 貧しく痩せて年老いている。長年風雪に晒されて生きてきたのだろう。羽織ったマント 朱色のニッカーボッカーに白のゲートルも かつては”自慢のお洒落着”だったはずだが 今や着古して粗末である。

暗い背景の中で 反身を 冷たく 全てをあからさまにしてしまうような強烈な光に晒され立っている。肩から商売道具のヴィエルを下げ 右手でそのレバーを握り 左手を弦に添えている様子には それでも 自分が何者であるかを主張しているかのような強かさがみえる。

 

作者のジョルジュ・ラ・トゥールは 十七世紀ロレーヌの画家である。生前 ルイ十三世付きの画家として名を馳せていたものの 何故か没後は急速に忘れ去られ 二十世紀になって再び脚光を浴びるようになった不思議な画家である。

ラ・トゥールの生きた十七世紀のロレーヌ公国は 西にフランス 東に神聖ローマ帝国という大国に挟まれた小国であった。当時 ロレーヌのような小国はヨーロッパ各地に多数存在した。大国同士ばかりでなく 大国が小国を絡め取ろうと また小国は自国を守ろうと 互いに策を弄してせめぎ合ってもいた。
アルザス・ロレーヌも 農作物 鉄 石炭の産地であり さらに大国間の緩衝地帯であり交通の要衝でもあったため 度々戦禍にまみれた。歴史上 有名なウェストファリア条約が30年戦争の一応の終結と言われているが カソリック対プロテスタントの宗教戦争という単純な括りは名目だけで しかもたった30年ではなく もっと古く長きに亘って民族対立 国家間の覇権争いを繰り返してきたのが実情であった。

そんな世情の下 人々の流れも多くあったわけだが 各地を渡り歩く人々の中には 商人もあり 辻音楽師と呼ばれる その日暮らしの流浪の民もあった。
ヴィエルをかき鳴らし歌を歌っては恵みを乞うて歩く。村から町へ 国から国へ。世の底を彷徨う辻音楽師。“音楽師”とはいうが 物乞いをして糧とする“乞食”である。ラ・トゥールの描いた“ヴィエル弾き”は そのような辻音楽師である。

そして犬。
この絵の足元には 腹ばいでうずくまる小さな犬が描かれている。この主人に寄り添い もう何年あてど無い旅を続けているのか。きっと 主人が道端で“仕事”をしている間 いつもこうやって腹ばいで休んでいるのだろう。歌い終わって主人が歩き出せば 犬もまたやれやれと立ち上がる。いつもこうやって休んでいるのは 腹を空かせているからだろうか。それとも年老いて。
しかし たとえ貧しかろうが主人に連れ添い生きてゆく それが犬の定めだ。絵の中で 主人が(盲目乍ら)こちらを見ているように 犬もまた同じように上目遣いでこちらを見ている。

ヴィエル弾きの絵は盲目で老人が多い。恐らく それが貧しく見捨てられて生きる者の生業としての数少ない選択肢だったのだろう。そしてそこから抜け出せないまま いつしか年老いてしまった。

顧みる人は少なかったはずだ。シューベルトの「冬の旅」に登場する辻音楽師。ミュラーの詩はこう歌っている。

「・・・誰も彼を見ない・・・誰も聴かない」

 

 

ところで ラ・トゥールは ヴィエル弾きを何枚も描いている。しかもほぼ同じような構図のものさえ。ヴィエル弾きは他にも多くの画家が描いている。なぜヴィエル弾きなのか。

帽子のあるヴィエル弾き

最下層民であり乞食である彼らは汚くて醜くい。しかも 中に少しはマシな者たちもいただろうが 歌も演奏も 単純でお粗末な 聞くに堪えないものだったかもしれない。王侯貴族が なぜそんな者を描かせたのか。
むろん 今我々をこうして強く引き付けるのは 作者自身が ヴィエル弾きに深い興味を抱き見つめていたという証である。
しかし音楽もそうだが(ベートーヴェン以前) 当時 画家は芸術的欲求に駆られて絵を描いていたのではない。注文を受けてから描く 言わば受注生産システムであった。ダヴィンチ ミケランジェロ(バッハ モーツアルトも) みな 教会や王侯貴族の注文に応じて仕事をした。ラ・トゥールも十二使徒や聖ヒエロニムスほかの宗教画を残している。それからすると ヴィエル弾きの注文が当時たくさんあったということだ。

一説によれば 当時 ヴィエルの音がペストの予防に良いとのことから おまじないの護摩札がわりにされたのではないかというのがある。ペストはヨーロッパで何度も大流行したが さしたる治療法のないまま 時に数万人を死に至らしめたというから 深刻な問題ではあったのだろう。しかしこれとて違う見方をすれば 各地を転々としていた彼らこそ 病原菌を撒き散らす媒介であったはずだが。

 

さてこれより以前 中世ヨーロッパには 吟遊詩人という放浪の音楽師がいた。
吟遊詩人と言えばトルバドゥールが知られているが 彼らは主に騎士・貴族出身で 各地の宮廷を巡り歩いた。(ちなみにミンストレルは宮廷付きの音楽師。もひとつちなみに 1960年代「ニュークリスティーミンストレル」というヴォーカルグループがグラミー賞を取るほどに活躍したが これは盲目でも放浪でもない)

これに対し フランスで言うジョングルール(大道芸人=ラテン語の「joculator=道化者」から来ている)は 民衆相手に やはり歌や楽器 ジャグリングや手品などを披露しながら遍歴していた。

そして後の『ローランの歌』『アーサー王物語』などの成立に 大きく寄与していると言わるように 彼らは騎士の武勲伝を多く語ったというから この辺は日本の琵琶法師と似ている(やはり人々は 昔も今も そして洋の東西を問わず 武勇伝が好きなのだ)。

いずれにせよ 放浪の音楽師はその他にも 学僧 托鉢修道士など様々 かつ広範囲に存在していた。それは 単に音楽や芸をしながら人々を楽しませるだけにとどまらず 神を語る伝道のようなことも 芸能 文化の伝承も 更には各地の最新のニュースをもたらすこともしたわけであり それなりに存在意義があったということだろう。

 

 

吟遊詩人

さらに時を遡れば 古代ギリシャ時代「イーリアス」「オデュッセイア」の作者と言われるホメーロス(実在の一人物かどうか定かでない)も吟遊詩人であり 盲目であったとされている。

古代すでに出現していた“盲目の表現者”を考えると まず それが生きる術としての数少ない選択肢の一つだったという現実が大前提としてあったと思う(先のヴィエル弾きがそうであったように)。

しかし何より重要な要素として 表現方法がまさしく“歌”や“語り”であったという点だ。文字ではなく“口承”であった点。

古代ギリシャでは なぜか詩人と盲目とが結びつけて考えられており また予言 予知能力などとも結びつけられていたようである。実際 特に秀でた聴力や記憶力をもっていた者もいたであろうが それとは別の側面で 人々にとって 盲目である様そのものが得体の知れない異形であったことも関係していたのではないか。
彼らは 長い々い叙事詩や様々な物語を“持ちネタ”として自在に表現した。人々は“音”や“リズム”を介してそれを聴いた。盲目の表現者は それだけで見世物的要素を持っていたであろうし 更にその口から発せられる 時に激しく 時に夢見るように または劇的に誇張された情景などなど 名調子に乗せて歌う彼らを (うさん臭さや 侮蔑の好奇心も含め)古代の人々は楽しんだのかもしれない。
(ちなみにホメーロスとは「付き従うことを義務付けられた人」との意)

 

翻って 日本では琵琶法師。
奈良時代前後 大陸より渡来したといわれる琵琶法師は 初期の頃より琵琶の演奏で経文を唱える いわば宗教音楽としての意味合いも持っていたようである(盲僧琵琶)。筑前(九州・福岡)から入ってきたとされ その後 京都を中心に様々に発展していった。各地には組織ができあがり 階級がついたり派閥があったりと 盲目 僧といっても いろいろと人間臭い(井上ひさし『藪原検校』では 盲僧が極悪人として昇りつめる様が描かれている)。

下って鎌倉時代には 宗教的盲僧琵琶と 有名な『平家物語』の平家琵琶とに分かれていた。ヨーロッパの吟遊詩人にも学僧 托鉢僧がいたことからしても 本来 伝道という意味はあったのだろう。

ただし 琵琶法師は町中で演奏していたが 放浪したわけではないようだ。なぜ町へでたのだろうか。同じ盲僧にも 先の「検校」のように権威ある僧がいた半面 乞食法師もいたというから 何か不始末をしでかして追い出された”はみ出し者”や 便乗芸人もいたかもしれない。

琵琶法師で面白いのは 単なる盲目の芸能者にとどまらず 毛利元就の抱えた座頭衆のように 屈強の忍者(こちらが本業)であり 各地で諜報員として暗躍していた者もあった点である(琵琶法師勝一が有名~「心様健やかにして、弁舌人に抜きん出るのみか、平家(琵琶)も又勝れて上手なりけり」~)。
鋭い聴覚 洞察力など当人の能力に加え 僧であることで一定の安心を与え かつ盲目であることで人々の同情を利用したり 相手を油断させたりと スパイとして巧妙なやり口である。さもありなん。
(勝新太郎の「座頭市」はお坊さんだったのか)

 

 

瞽女2しかし 〝盲目の旅芸人〟で思い浮かぶのは 何といっても瞽女だ。

雪道をとぼとぼと連れ立って歩く瞽女の群れ。

かつて日本にもそういう人々がいた。盲目で 三味線を弾き歌い 門付けして歩いた女旅芸人。室町時代後期「七一番職人歌合」(絵・歌入りの職人名鑑のようなもの)にすでに登場しているので こちらも歴史は古い。

その室町時代には 貴族に召し抱えられた者も また一方 乞食同然の者もいた。この辺りもヨーロッパの吟遊詩人と似たり寄ったりだ。

江戸時代以降の瞽女は ヴィエル弾きのような単独ではなく 小さいながらも組織化された「座」を組み また1年の殆どを旅に暮らしたが 〝放浪〟ではなく ほぼ一定の旅程が決まっていた。ゆく先々では定宿(瞽女宿)が用意され 昼間 門付けして回った後 夜は演奏会があったり酒宴に出たりと 交通網が未発達で 娯楽の少なかった時代と地方では それなりに歓迎もされていた面がある。

瞽女は越後(高田 長岡)が有名で そのため雪の情景に重なる印象が強いが 近世以降の一時期は全国にいたという。藩によっては保護政策をとっていた(扶持を与えるなど)地方もあった。
明治の初期には 条例により禁止されたものの 何故か新潟だけは除外された(実際 越後の瞽女は最大の勢力を持っていた)。

「瞽女唄」を残すことには意味がある。ただ 今になって瞽女を「芸術」「文化」などとして持ち上げようとするなら それには違和感が強い。
そもそも 望んで瞽女となった者はいないはずだ。瞽女は 盲目であるが故に〝見捨てられた娘〟が 生きる術として止む無く歩かされた旅路だったからだ。
昔 家が貧しければ娘が売りに出されることも稀ではなかった。しかし盲目では女中としてさえ売り物にならない。そこで例えば高田瞽女なら 親方(もちろん盲目の瞽女)の養女として引き取られ 親方はこれを瞽女として育て 仕込んだ。
娘に他の選択肢はない。

そしてさらに 瞽女は〝女〟
女であるが故の辛酸を舐めたことも 忘れてはならない。
瞽女社会の掟は厳しく 特に男女の交わりは厳に禁じられていた。破った者は破門。結婚はもちろん 恋愛さえできない。売春は言うに及ばず たとえ〝被害〟にあった場合でも許されなかった。事件にさえならなかったかもしれない。

群れを追われた盲目の女が独り生きてゆく。

これらの事実 歴史を 世はずっと座視してきたのだ。瞽女は 「芸術文化」などではなく 存在そのものが悲惨な歴史だったとして認識しておくべき事柄である。

映画『はなれ瞽女おりん』では そんな瞽女を 哀しくも美しく描き出していた。
岩下志麻も 東北の風景も美しかった。美しすぎて実際の惨めさがかなり救われてしまっていただろう。弱き者 小さき者への安易な憐れみは 強者の側の距離感 優越感に支えられている場合が多い。ヴィエル弾き同様 実際の壮絶さは近寄りがたい存在だったはずだ。

盲目 歌(語り) 放浪・・・
こうしてみてくると この共通項には何等か必然性があるように思う。興味深い。

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