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神よ皇帝フランツを護り給え

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讃美歌「栄に満ちたる」は 現「ドイツ国歌」とメロディが同じですね。
(国歌と言っても 意外や非公式らしいですが)

つまり 両方とも原曲を同じくしているということなんですね。
讃美歌としては1800年初頭には すでに収録されていたようです。

フランツ2世。 豪華ですねえ。

で その原曲というのがこれ。

『神よ皇帝フランツを守り給え』ハイドン作

1797年 神聖ローマ帝国フランツ2世を称えるため 皇帝の誕生日に初演発表したという4部合唱曲でした。

 

 

 

というわけで ここではその原曲
『神よ皇帝を護り給え』にまつわるお話を。

歌詞は (当然ですが)もう皇帝様バンバンザイの コッテコテおべっか仕様。
(詩はレオポルド・ハシュカ)
それはいいです。

 

それよりこの曲(メロディ)の 生命力が強い。

まず
ハイドン自身で『弦楽四重奏曲77番(通称『皇帝』)』の第2楽章に組み込んでいます(これは自分の作品なんだから当たり前)。

その後です。
歌詞の方はその時々の都合によって頻繁に変えられながらも 各国の国歌に流用されて今日のドイツ国歌にまで至ってるんですから(もちろんその過程では讃美歌にも)

オーストリア帝国
オーストリア=ハンガリー帝国
ヴァイマル共和国
ドイツ連邦共和国
ナチスの第三帝国
それに現ドイツ連邦共和国

もっとも 国々といっても 看板の架け替えだけとも言えますが。

その他 ヨハン・シュトラウス(『美しく青きドナウ』の2世の方ですね)が 自作の曲に何度も取り入れています。
『ハプスブルク万歳』
『ミルテの花冠』
『皇帝フランツ・ヨーゼフ1世祝賀行進曲』

ハプスブルク家。みんな同じ顔。

ヨハン・シュトラウスのこれらの曲についてはですね
元にした『神よ・・・』の対象とした「皇帝フランツ2世」という人が そもそもハプスブルク家なんですね。
ですからハプスブルク家にとってハイドンの曲は浸透していた。そこで ヨハン・シュトラウスは 新たにハプスブルク家の王侯たちを称えるにあたっても ハイドンのこのフレーズを踏襲し 象徴的に いわば”ごあいさつ”として挟み込んだものではないかと思います
(まあ「シャレ」というか「つかみ」というか「みなさまお馴染みの」という感じかな? そしてハプルブルク家の人々も喜んだのでしょう)

 

さてそれはともかく

ハイドンはオーストリア人ですが どうやら
「クロアチア出身かもしれない」
「この曲の元もクロアチア民謡にあるらしい」
という話しを発見。

ドイツ系クロアチア人フラニョ・クハチ(Franjo Kuhac,1834-1911)が 1880年、「ハイドンとクロアチア民謡」という学術論文で「西オーストリアでクロアチア少数民族として登録がある」という指摘をした(しかし これはその後20世紀に入り 別の人物により否定されているとも)

現ドイツ国歌を聞く限り 荘厳で なるほど心躍るような推進力をもった曲です。この讃美歌『栄に満ちたる』も落ち着いた威厳を感じる曲です(曲が同じなんだから当たり前か)

ドブロブニク。キキが飛んでるか。

 

クロアチアと言えば ジブリ映画『紅の豚』とか『魔女の宅急便』のモデルともなったドブロブニク。”アドリア海の真珠”なんて呼ぶ旅行ガイドもあり 日本人には 魅力的で憧れの町になっています。『魔女の宅急便』では 軽快で民謡風な曲がBGMで流れていましたね。きっとクロアチア風なんでしょうね。

クロアチア民謡では マンドリンの他 ブズーキというギリシャ発祥の楽器もよく使われていたようです

ナポリタンマンドリン18世紀

ハイドンのこの曲がクロアチア民謡を元にしていたというなら いたいどんな曲なのか興味をそそられます。
そこであれやこれや聞いてみると 面白かった。ガチャガチャと陽気なものや哀愁を帯びたもの 重厚で端正なハーモニィなど 多様性豊かなんです。素朴なものばかりを想像していたので意外でした。

ブズーキ

Klapaの面々。

まずKlapaと呼ばれるアカペラ・コーラス。ダルマチア地方伝統の男性合唱とうもので 荘厳で厳粛な響きをもっています。グレゴリアンチャントより洗練されて カッチリした構成をもっています。今でもクロアチアの街角では身近に聞けるようです(観光用でしょうね)

「フォークダンス」懐かしい。

あるいは Koloと呼ばれる踊り。これも伝統的民族舞踊。輪になったり離れたりして踊る 昔学校で踊ったマイムマイムのようなフォルクローレで我々日本人にとっても懐かしい感じのダンス。

 

はい で 本題の『神よ・・・』の元になった民謡というのは
ズバリこれですね。

「音」としてはそっけないですが なるほど一部「まんま」です。しかしこれが元々の民謡なのかどうなのか。

これは物憂げなマイナー調ながらやはり同じ旋律。
これも素性がわかりません。上の曲との関係は?
時代の前後はわかりませんが とっちみち民謡なので ヴァリエイションというか みんなが好きなように変えて歌ったんでしょうね。即興演奏も普通だったでしょうし。

とまあ メロディの素がクロアチア民謡にあることは分かりました。

 

ハイドンの生家

ハイドンの生地はオーストリアの「ローラウ」。
当時でいうと旧オーストリア大公国の端っこに位置する ハンガリー国境からすぐ隣りのごく小さな村です。
当時はクロアチアも隣りであり 16世紀後半にはトルコ(オスマン帝国)からたくさんのクロアチア農民が逃れて来た地域です。ハイドン家も曾祖父の代にハンガリーから移住してきた。

19世紀末ごろのこの地方(オーストリア/クロアチア/ハンガリーの国境界隈)は 短い期間に主従関係が目まぐるしく入れ替わり(侵略戦争) それに伴って勢力図も切ったり貼ったりを繰り返していました(例えばナポレオンですね)
要するに 元々多民族が混在して住む地域であり 地続きで互いに隣接していたので 人・モノ そして文化の行き来も多かった土地柄だったでしょう。

 

民俗的出自の特定はさておき ハイドンは馬車大工の子 つまり庶民でもあったし お父さんはハープを弾いて歌うような人でしたし ハイドン自身も子どもの頃 合唱団のボーイソプラノでした。

壮麗なエステルハーザ。これがなんと夏の別荘。なんという搾取。

さらには長く奉公したエステルハージ家の地理からしても 各民族音楽と身近に接して過ごしたことは確かでしょう。
(エステルハージはハンガリーの大貴族であり 豪華な離宮「エステルハーザ」もハンガリーにあった。ここアイゼンシュタットがオーストリア領となったのは ハイドン死後100年も後のこと)

ニコラウス2世 (ハンガリー語=ミクルーシュ)

ハイドンはエステルハージ侯爵の召使いですから 日々 侯爵の命で音楽を作っていた。
特に2番目の主人であるニコラス侯爵は無類の音楽愛好家で ハイドンは この御仁のために曲を提供するのが仕事でした。つまり 食事を提供する料理人と同様 音楽を提供する職人だったわけです。

エステルハージ家には音楽劇場もありオーケストラも抱えていました。ハイドンはこれの指揮者兼音楽監督兼支配人だった。

さらに 侯爵は「バリトン」というチェロに似た楽器を弾くことを楽しんだので ハイドンは 侯爵が弾くための曲もたくさん作曲しています。

バリトン。いちいち調弦がたいへんそう。


このように
勤勉で かつ創作意欲も高かったハイドンは 音楽の研究には日夜余念がなかったはず。国内外のみならず 当然 民俗音楽 特に周辺の音楽は研究していたでしょう。
もしかすると侯爵からこんな要望を下されたかもしれません。
「ハイドンよ 今度はクロアチア風の曲を所望するぞ」なんてね。

 

事実ハイドンは この曲以外でも 民俗音楽を多く採り入れています。

弦楽四重奏『鳥』終楽章
交響曲104『ロンドン』終楽章
交響曲103『太鼓連打』終楽章

これらにも クロアチア民謡のメロディが使われているんです。

クロアチア出身でなくとも また 早くから家を離れ(口減らし?) 音楽学校や教会と言う音楽的環境の中で育ったハイドンですから その地方の民謡なら身に沁み込んでいたでしょうし むしろ深い愛着を抱く音楽を表現したのではないでしょうか。

ハイドンの自筆譜。アウフタクトで書いてますね。

ところで
Webで誰かが「『神よ・・・』は何故アウフタクトなの?」と質問していましたが そうなんですね。
上記の楽譜を見ると2拍子ですし 他の民謡の楽譜も2拍子が多い。

「2拍子」だった民謡を 何故かハイドンは「4拍子」のアウフタクトで書いたわけです(自筆譜がある)
『神よ・・・』を聞いても 音楽的にアウフタクトのニュアンスは感じないし 根拠はないとしか思えない。

「楽譜」って「音」を論理的に並べるものですが 無理もあるし限界もあし そして誤りもある(まあハイドンが誤ったとは思えませんが)
う~ん何ででしょう?

と ここで
「じゃあ ハイドンってパクリ屋?」という問題が。

いや 確かに現代ならそう非難されるかもしれません。しかしそれを言うと バッハもベートーヴェンもモーツアルトも その他パクリ屋だらけだったということになってしまいますが それは違います。

端的に結論だけ言うと 当時は「”素材”に価値はなかった」ということです。
素材 つまりメロディの断片(フレーズ)ですね。

1763年ごろのモーツアルトという。

モーツアルトで有名なエピソードだと バチカンのシスティーナ礼拝堂での話。
父と一緒のイタリア旅行で礼拝堂を訪れた14歳の少年モーツアルトは そこでアッレグリのミゼレーレを聞いた。それまで教会として門外不出の秘曲だったこれを 聞いて帰ったモーツアルトが譜面に起こしてしまったという。それを出版社が販売したことで不出の禁が解かれたとか。ローマ法王も絶賛したとか。
(これはむろん盗作ではない)

実は バッハにもベートヴェンにも 他の曲の「モチーフ」を使った曲は意外に多いんです。

例えば ベートーヴェンの『田園』も ”主題=素材”はクロアチア民謡なんですよ! まったく同じメロディ(主題)がある。バッハも 同時代の他の音楽家の旋律をあちこち使っている。

要は その「素材」をどう「料理」するか。出来上がった「料理」がどうか。それこそが重要で価値があったんです。
モチーフを「どう響かせるか(和音やオーケストレイション)」「どう展開するか」「どう構成するか」というのが作曲者(あるいは演奏者)の腕の見せ所だった(ベートーヴェンは演奏家の自由を許さなかったといいますが)

先の『田園』も 確かに「主題」には民謡と同じ旋律を使っています。しかし「全体」としては 響きもスケールも全く違う。

分かりやすいのはモーツアルトの「きらきら星変奏曲」 題名からしてそのものズバリですもんね。ハイドン自身も この『神よ…』を 自分の作品『弦楽四重奏曲77番』第2楽章で「変奏曲」として組み込んでいますし。 

ある旋律を聞いて
「ふ~ん。でも俺ならこうするな。こうした方が断然カッコいいでしょ」
って感じじゃないですか。

通奏低音の数字つき楽譜

それにあの時代 現代のジャズのように「アドリブ」=「変奏」するのが当たり前でもありました。例えば 楽譜には通奏低音としての数字が書いてあり それをみて奏者は好きに演奏するとか(まさに! ジャズのコードネームだけかかれたメモと同じだった!)

さらに バッハもモーツアルトもアドリブの天才だったんです。しばしば王侯貴族に招かれては 他の奏者とアドリブ合戦をさせられていたたくらいです(もちろんバッハもモーツアルトも常に圧勝だったでしょうね)
殿様があるフレーズを与える。すると2人の音楽家が即興で”ブワーッとそれをアドリブ合戦。ちょうど 寄席の大喜利で 客席から「お題頂戴」して芸人が即興で「謎掛け」する あの要領ですね。「ザブトン〇枚!」のご褒美もあったでしょうし 名誉欲もあったでしょう。かつ純粋に音楽家としての情熱 闘争心もあったでしょう。

こんな風に 「素材」そのものに価値はなく 問われるのは「ひらめき」「展開力」「構成力」「オーケストレイション」「演奏技巧」・・・つまり「出てくる音楽」だったということです。

左=盗作。右=リエージュのデザイン。

(2020東京オリンピック・エンブレム 佐野研二郎のパクリ疑惑は結局ウヤムヤニに消えてしまいましたが あれは盗作でしたね。色も構成もバランスも全くのパクリだったのに リエージュのデザイナーが世界的には無名だったので立ち消えてしまったのでしょう。それにしても あの後 代替に決まった今のモノクロのデザイン。もう見慣れてしまいましたが ”祭典の華やぎ”が全くない。しかし誰も文句言わないんですね)

 

さてここで余談。
讃美歌もそうですが 国歌も実は「替え歌」が意外に多い。
『そんな大事なものを』という感じがしますが そうなんです。
アメリカ合衆国『星条旗』にも元歌があるんですよ。
普段 「アワー ナショナルエンセムッ!」などとアナウンスされて ブラスバンドやオーケストラで華々しく勇躍たる演奏が始まる。
あるいは力量ある歌手が朗々と勇ましく歌い上げるアレです。スポーツのセレモニィなどでは黒人歌手が存分にコブシを効かせてアカペラで歌っている。
(日本でもマネして人気歌手が君が代歌ったりします)
さらに 変わり種では ジミ・ヘンドリックスがウッド・ストックでやったのも有名でした。

しかし 元歌の方は意外や いわゆる流行歌なんですね。ヴォードヴィルなどで人気だったのでしょうか。聴いてみると 確かにメロディは「まんま」です。しかし あの勇壮なものとはまったく違って とても軽~い感じの『へえ~』と拍子抜けするようなものです。

 

余談の余談として

☞ フランス国歌『ラ・マルセイーズ』の作曲者はドイツ人。フランス領となったアルザスの人。

☞ ハプルブルク家=ドイツ・アルザス系の皇帝賛美(後のドイツ国歌)の作曲者ハイドンが オーストリア人(ハンガリーに近いクロアチア人?)

☞ ラデツキィ行進曲の作曲者ヨハン・シュトラウス1世が ハンガリー系ユダヤ人。

☞ ラデツキィ将軍はボヘミアの貴族。

☞ ヨハン・シュトラウス2世は 元オーストリア人のドイツ人。

☞ モーツアルト時代のザルツブルクはオーストリアではなく バチカン・ローマ教皇の領地だった。オーストリア領となったのはモーツアルト死後25年後(従って 厳密にいえばオーストリア人とは言えない!)

☞ ドイツの詩人ゲーテと言われるが あの時代「ドイツ」という「国家」はなかった。当時フランクフルトは神聖ローマ帝国だったので 強いて言えばオーストリア人?

やれやれ・・・

 

さて話を戻すと

上述したように ハイドンはこのメロディを『弦楽四重奏曲77番(通称『皇帝』)』の第2楽章として編曲(変奏曲)していますが 「変奏曲」としての評価はあまり高くないようではあります。まあ ヴァイオリンからチェロ ヴィオラと交代でテーマを変奏してゆく流れの中で ヴァイオリンがアルペジオで飛び跳ねる部分は確かに「ふんふん」程度ですが しかし主役でないときのチェロの昇り降りは なかなかいいんですよ。

そういえば ニコラウス侯爵がチェロ好きのためだったのでしょう エステルハージ家のオーケストラには優れたチェロ弾きが2人ほどはいたようで それがあってハイドンはチェロコンチェルトを2曲も作曲したんです(確認されているもの)。

優れた”奏者”がいれば優れた”曲”が書かれ
優れた”楽器”もまた優れた”奏者”や”作曲家2から生まれる。
互いに刺激し合うんですね(ベートーヴェンとピアノのように)
優れた芸術家にはパトロンがお金をだすし
”美しい女性”ももちろん優れた”芸術”を生み出す。
(おっと これはセクハラ? 女性蔑視?)

とまあ 何はともあれ これは好きな曲です。
ハイドン自身 この曲をたいへん気に入っていたらしい。イングランド公演などでも大成功をおさめ オーストリアにも豪邸を構えるほどにまで昇りつめたハイドンですが 晩年は 重い病に苛まれていた。ただそんな中でも 死の直前までピアノでこれを弾いていたといいます。

こんなピアノで?

ウィーン式ピアノ。うーん豪華。

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