神奈川・茅ヶ崎の児童養護施設=癒しのための巣づくり

唱歌「ふるさと」考

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「ふるさと」私家アレンジ版

 

 

まずは
●「兎 追ひし ~」から

 

ウサギを追い駆けたのは 実は〝害獣駆除〟のためだった!

DaimochiOhirayama日本人なら誰もが知っている「ふるさと」。
♪ う~さ~ぎ~ お~いし~ ♪ の歌い出しも ほとんどの人が口ずさめるくらいに。

山でウサギを追いかけまわしたり 川で小鮒を釣ったりと 田舎の子どもが野山を駆け回り遊ぶ 微笑ましく懐かしい光景が思い浮びますよね。

ところがです。
「兎 追ひし ~」は 畑を食い荒らすウサギを駆除するための掃討作戦でもあったという事実が。
このことを知っている人がどれほどいるのでしょうか(いや 里育ちの人はみんな知ってるか)。

かく言う私も このサイト「池田小百合 なっとく童謡・唱歌」にて初めて知りました。
(このサイトは 童謡・唱歌について 非常に詳細かつ真摯に研究 紹介している力作サイトです。敬服します。本稿では このサイトから多くの情報を頂戴し 解釈しています)

 

飯山のタクシー運転手の話が そのペイジで紹介されています。

兎は 昔 農作物を食い荒らす”害獣〟だった。
春になって雪がとけると兎が出て来て、やっと芽吹いた木々の若芽や畑の農作物を食べてしまう。
そこで 学校では先生が児童を引き連れてウサギ狩りを行ったそうな。これは学校挙げて 村を挙げての一大行事でもあったと。

それも ただやみくもに追い駆け回したわけではなく 針金や棒切れで細工したワナを仕込んだとも紹介されているので 子どもにとっては たとえ遊びの要素もあったにせよ 本格的な むしろ〝狩猟〟でもあったのでしょう。
きっと ワナの出来具合や獲物の成果を ムキになって競い合ったんでしょうね。小学5~6年ともなれば かなり実用的なものが作れたでしょうから。
今でいえばサルやイノシシ ハクビシンの被害などと同様の感覚だったんですね。

そして 狩ったウサギはそれぞれが家へ持ち帰り〝ウサギ鍋〟などにして食したのだとも語られています。

「〝ウサギ美味しい〟ではありません」
『ふるさと』の解説記事でよく見かける ある種の冗談のような おまけの記述があります。

しかしあれなど 「ウサギ鍋にして食べた」というなら 「美味しい」かどうかはともかく この冗談も 当たらずとも遠からずということになりますね。

(ただし 冗談ではなく 実際誤解することも多かったのかもしれません。というのも 楽譜の歌詞は 普通音符に沿ってひらがなで書いてあるものですが 古い楽譜の中には「追いし」と そこだけわざわざ漢字表記しているものもあったところをみると あながち冗談とばかりも言えない状況もあったのでしょう)

 

●「小鮒 釣りし」

釣った魚は 同じく晩の食卓に乗った。

これも 単に子どもの遊びで釣りを楽しんだというだけではなく その日のおかずとして食卓に乗ったということ。

ご飯や風呂のための薪割りもそうですが 当時は子どももしっかり生活を支えていた側面があったのです。

(昔 旧茅ヶ崎学園の草創期 風呂はまだ薪で焚いていました。そのための薪割りは指導員がやっていて 私も時々やらせてもらいましたっけ)

とまあ 「ふるさと」の歌い出しは 現代の我々が思い描くような 無邪気でのどかな風景を歌ったわけではないという点が 誤解であり新鮮でもありました。

Chikumagawa

●「いつの日にか帰らむ」

=「いつか 帰れる日がくるだろうか」=疑問文
【ここ重要ですね】

「いつ」=不定詞=疑問文。
「帰らむ」=帰れるだろうか。
「む」=推量の連体形(意思の助動詞=「帰ろう」ではない)。

「いつか」 =現代語の不特定未来を指す副詞ではない。
(上記サイトよりまとめ)

今の感覚からすると
「都会へ出て 人生の目標を成し遂げ(立身出世して錦を着て) いつか故郷に帰ろう」という前向きな意思や希望を歌っている・・・。
ほとんどの人がこのように解釈しているでしょうね(事実このような解釈があちこち散見されます)。

しかし古文の正しい解釈としては上のようなことになるようですよ。なるほど。
古文について私はあまり知識がありませんが 確かに 単なる前向きな決意表明では単純すぎてつまらない気もします。

 

●尋常小学読本唱歌

1910(明治43)年
明治政府は国民の情操教育として音楽教育に唱歌を取り入れることにし その教科書がこれでした。

しかし 何故かすべての唱歌において著作者名は伏せられ ただ「文部省」の名だけで発行されました(つまり人格を完全無視した)。

≪作者には高額な報酬が払われた一方 氏名は伏せられた。本人もそれを口外しない契約だった≫!? との記事を見たことがあります。真偽のほどはわかりませんが 妙に納得できる話です。

むろん「契約」などという平等な感覚ではなく おそらく ”お上”からの”お達し” だったのでしょうが。
今でも 政府の諮問機関などという”お抱え学者”たちは 一般国民の知らない”高額な報酬”を得ている筈ですし ”御用学者”と揶揄される存在もあります。

唱歌は委員会(=「音楽取り調掛」=作詞委員/楽曲委員)の合議制。つまり 各委員は芸術活動ではなく 職務として創作にあたったわけです。
そもそも芸術ではなく 国の施す教育資料なんですから そこに人格など必要ないのです。

そのため ほとんどの唱歌は長らく作者不明のままであり しかも 後に世の趨勢により著作者の氏名を記載する必要が生じてからでさえ 国(所有権は文部省)が作者特定のための学問的な調査検証をすることもなかったといいます。
その辺 とても失礼な 無責任な対応だったのです。不思議ですね(いや 不思議ではなく〝お上〟は常に尊大ですから何の疑問もありません!)

 

●唱歌は国策

唱歌創作は国策に沿ったものであったので 作者(委員)たちはみな国の〝ご意向〟に従って曲を作っていた筈です。

特に作詞の面では 検閲というのか かなり細かな編集がなされたような記述も見られます。今の北朝鮮みたいですね。
否 現在の日本でも〝教科書検定問題〟は度々起こっていますし 最近でも自民党がTV局を呼びつけて圧力を掛けたことが問題視されたばかりですから 他所のことは言えませんが。

選曲も当然のことながら国の都合によってなされたし 同じく歌詞はその時々の都合で変えられてきた経過があります。

たとえば
「汽車 汽車 ポッポー ポッポー・・・」という歌がありました(今でもあるか!)。
それは「鉄橋だ 鉄橋だ 楽しいなー」などと無邪気に終わるのですが 元はアレ 「兵隊さん 兵隊さん 萬々歳」だったらしいですよ!

つまり〝出征の栄誉に浴した若人〟を励まし称える感情を国民に植え付けるための 戦意高揚の歌だったんです!
それを 戦後NHKの「紅白音楽試合(=現歌合戦)」で放送する際 GHQへの配慮から「歌合戦」を「歌試合」に。更にあの歌詞ではマズイと 急遽 作詞者ご本人へ要請して書き直してもらったのだということです。

そうなんですよ 戦意高揚の国政プロパガンダの歌だったのが ちゃっかり童謡に。驚いてしまうでしょ?

まあ 昨日まで皇国だ 滅私奉公だと教えられてきたのが いきなり〝主権在民〟に化けたのですからね。
(この他にも 〝実は・・・だった〟という例はいろいろとあり 調べてみるとおもしろいものがたくさんありますよ)

また
「ふるさと」は〝一貫して教科書に載っていた国民の愛唱歌〟と思われていますが これも実は 戦時下の国民学校の教科書に載せていない時期があったのです。

理由は 歌詞が「女々しかった」ためという説もあります。それもあるでしょうね。

しかし私が思うに
特攻隊員など 『帰れない』ことを前提とした任務(ゼロ戦などによる自爆攻撃!)についていた兵士たちに 『いつか故郷に帰れるだろうか』などという歌詞は適切ではない。で削除。
これは 国が兵士たちを思いやってのことではなく 『帰りたい』という望郷の念を起こさせては士気を下げてしまう それでは国策として不利だったからでしょう。

 

●元日本兵


「恥ずかしながら帰って参りました」

1972年(昭和47年)
終戦28年目にして祖国へ帰還した〝元日本兵〟横井正一さんが たくさんのカメラの前で開口一番挨拶なさったのが この言葉です。

Webに無数にある記事よれば
横井さんは日本陸軍伍長としてグアムへ配属され 日本の敗戦を知らぬまま ジャングルでの28年間を生き延びた人です。

『生きて日本には帰れない』という覚悟を持っていたということですが 横井さんに限らず 日本の兵隊はみな「生き恥さらすな」「捕虜になる前に死ね」と教えられていたからです。
(「生き延びろ。そして一人でも多く敵を殺せ」との命もあったとか)

神風特攻隊は その戦闘能力からしても また戦況からしても 相手を撃破するというよりは ”自爆するためだけ”に出撃していった。
戦闘員たちは戦死こそ名誉と出撃していった。

同じく 人間魚雷=「回天」の頭には爆弾が積んでありましたが なんとそれは発射するものではなく 〝体当たりして爆発させる〟ものでした!
脱出装置はなく しかも操縦者が気絶して前のめりになっても爆発するような仕組みであったと!
念の入った(しかも卑劣な念の入った) 人命無視の装置だった。
まさに”人間魚雷” ”自爆装置”
日本軍にとって 兵士など ”発射装置”でしかなく その命は一発の爆弾よりも軽かったのです。

 

 

2001.9.11のアメリカ合衆国同時多発テロ。

ニューヨークのツィンタワービルに 2機の飛行機が突っ込み やがてまるで絵空事のように ゆっくりと まさにスローモーションのように崩れ落ちてゆく映像は 世界を震撼させました。

しかし あの驚愕の事件 ISの過激さを衝撃的に突き付けられたあのテロ事件が アメリカの報道の一部では なんと
〝パールハーバーの再現〟
〝特攻隊の再来〟
という表現もされていたようです。


アメリカ艦船に突っ込む特攻機

自爆攻撃。

太平洋戦争末期において ジリ貧の日本は様々な特攻を仕掛けました。
敗戦が目に見えていたにも関わらず いや だからこそ破れかぶれの暴挙に走ったのです。
爆弾を抱えて敵に突っ込む。戦死を前提とした特別攻撃。
これに ”鴻毛より軽い”人の命が あまた使い捨てられたのです。

つまり 自爆攻撃はイスラム過激派よりとっくの先に 日本の国家戦術だったわけです。

日本が広島長崎を忘れないように アメリカもパールハーバーを忘れないということです。

 

旧日本軍の特攻兵器 ”人間魚雷”「回天」
それを紹介する記事の写真には 整列した軍服姿の少年兵士たちが映っています。全員丸刈りに鉢巻をし 見ればみな10代の子どもたちです・・・。

沖縄少年ゲリラ兵について こちらで述べています。

●童謡ではない

『ふるさと』は「童謡」として括られる場合が多いですね。便宜上そうしているのでしょう。
しかし その内容からして 少なくとも 子どもが歌って楽しいと感じることは全く考慮していない。〝国民教育〟ですから 単なるロマンティックやメランコリックな歌ではなく 志を高くもて! 立身出世せよ! と〝正しい姿〟を示したということでしょう。
その姿勢は 国が子ども(国民)の水準に降りてゆくのではなく 〝子らよ 上がってこい〟というものでした。平易でわかり易ことがいいとは限らない。そう それはそれで正しいとは思いますね(現代は子どもに迎合し過ぎですから)。

 

 

Okano Teiichi

 

●さて
作者について

岡野貞一(説):

『ふるさと』の作曲者は 現在では一般的に「岡野貞一」とされています。
しかしその名は 上述のように長らく不詳のまま(つまり どうでもいいこと)でした。そして不詳のまま 岡野は1941(昭和16)年12月に没。

作者として岡野を最初に紹介したのは なんと音楽雑誌でした。
岡野の死の翌年 つまり1942(昭和17)年3月発行の『音楽之友』。そこに掲載された 田村虎蔵(作曲家・東京音楽学校教師時代の同僚)による追悼文がそれです。ここで田村は岡野の作品を取り上げ その業績を称えています。

続いて 『同聲會報』5月号(東京音楽学校=現芸大・同聲會発行)でも記載されているそうです。これは今でいうクラブ誌のようなものでしょうか。

ちなみに その後 1948(昭和23)年『教育音楽』誌上で音楽史家・遠藤宏が発表していますが その根拠はなんと〝伝聞による〟ものだったと書かれている。(その他多く唱歌についても その程度の情報しかなく 作者特定の根拠が薄いものが多い)

 

1967(昭和42)年 日本音楽著作権協会が『唱歌作品集』の中で岡野作曲を認定しているので これをもって「公式」としてもいいように思いますが 文部科学省では これ以外の資料は確認できない としているそうです。

これはどういう意味なんでしょうか。「これだけでは不十分」「だから断定できない」という意味なんでしょうか?
いやいや 1989年・小学校学習指導要領では いつの間にか作曲者として岡野の名が記載されているので これを「公式」とすればいいんでしょうか。

しかしまあ そもそもの話 唱歌が国民を〝教育するため〟の音楽であった点が気に入りません。
更に 音楽でありながら作者の人格を無視した委員会制 合議制であった点も理不尽。
委員たちは 選任された時点で国の意向に従うことに疑いもなく 同様に「合議」も受け入れていた訳です。ですから もし岡野が真の作曲者であったとしても 黙していたことは当然でしょう。

縄文時代のハナシじゃありません。ほんの70~80年前の しかも国策で創作させた歌の基本情報が不詳だなんて。人権の扱いが いかに〝ぞんざい〟であったかということを物語っています。

先に 唱歌制作は合議制であって 作者名は伏せられたと紹介しました。というより委員の名簿はあるが 作品と個人を結び付けるものはないのです(合議ですから!)

岡野自身の自筆譜がない。覚書など記述もない。どこにも自身の発言がない。更には 家族などの証言もない。となると そこにはむしろ〝頑なに〟黙している様子がみえてきてしまいます。(ちなみに 家は空襲により焼失)

まあそんなこんなはありながら 私の興味の視点は 作曲者が岡野貞一だとすれば このふるさとには 信仰の精神基盤の上に 讃美歌的響きが広がっているという点なのです。

岡野は敬虔なクリスチャンでした。
1892年の15歳ごろ 生まれ故郷の鳥取教会で洗礼を受け その後 岡山で宣教師からオルガン奏法を習っています。
1895年には 東京音楽学校(現・東京芸大)へ入学し 卒業後そのまま助教授 教授まで務めた。その傍ら 約40年にもわたって 本郷中央協会のオルガニスト兼 聖歌隊の指導者としても力を注ぎました。
その間の1918年から 尋常小学唱歌の作曲委員を務めていたわけです。

岡野はこのように 少年時代から教会および賛美歌を通じてキリスト教文化の中で育ち なおかつ学術的にも本格的な音楽基礎を収めていたのです。
文部省の小学唱歌は ほとんどが西洋音楽に日本語歌詞をつけたものだったようですが もし『ふるさと』が岡野の作だとしたら なるほど と納得できる響きがあります。確かにふるさとは それまでの日本の歌とはまったく趣が違いますからね。旋律も和音進行も。

 

TakanoTatsuyuki

高野辰之:

作詞者:高野辰之の方は (この人も立派な国文学者だったようですが) その養女が音楽著作権協会に名乗り出たことをキッカケに 知人などの証言を得て認められたという妙な経緯を辿っています(名乗り出なければ何も起こらなかったのでしょうか。国も調査しなかったし 著作権協会も放ったらかしだったんですね)

 

 

とまあ 非公式ながらこのような資料によって 作詞:高野辰之 作曲:岡野貞一との認識が定着しています(ん? 著作権協会の認定は非公式? 「音楽之友」は出版社だから非公式?)。

不思議なのは 高野の方は養女が自ら名乗り出たというだけで 岡野の方の周辺は誰も発言していないことです。その他の委員たちからも その周辺からも。
みんな頑なすぎませんか。

 

最後に
●「ふるさと」の「かの山」「かの川」は 高野の故郷 信州・中野の「大持山」「大平山」そして「斑川」だと言われています。

(冒頭の写真)
しかし 歌う人聞く人がそれぞれの故郷を思い浮かべればよいので 「どの山」「どの川」であってもかまわない。

 

「ふるさと」考でした。

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