この少年は悔悛しない。徹底してアウトローを貫いている。
「感化院へ送られるとすぐ、おれは・・・」という書き出しで始まるこの小説の主人公が、犯罪少年であり、それ以前すでにいくつかの更生施設や感化院を経てきていることも次第に分かってくるのだが、小説の最後のペイジに至ってもなお、つまり出所した後(これを書いている今)も相変わらず〝仕事〟に精を出してきたこと、そして次の更なるデカイ計画を温めていることを吐露している。
・・・今度しゃばに出たらぜひやってみようと 考えを研ぎ澄ませて錬り上げた計画だ・・・と。
そう、この少年は悔悛しない。
警察、教育、良識など、社会正義そのものが少年にとっては敵である。何度も施設送りになりながらなお犯罪を繰り返し、目の前にある権威に徹底して反撥し続ける。
しかし 牙をむくような激情はそこになく、むしろ淡々とした語り口から、かえって少年の冷たい怒りがひしひしと伝わってくる。そして同時に、その潔さとしたたかさが、少年の孤独な生きざまを浮き彫りにしてもいる。
感化院へ送られるとすぐ、少年はクロスカントリーの選手に抜擢される。全英各地の感化院から代表が集められ、〝我らが感化院の名誉〟をかけて競う一大イヴェント、その出場へ向け、院長直々の檄を受けて少年は走り始める。
真冬の早朝、まだ他の少年たちがひたすら眠りをむさぼる感化院からひとり抜け出し、霜の降りる凍てつくような光の中へ出てゆく。解放された孤独の世界へ。
・・・走ることは嫌いじゃない。もともとこれまでだって、お巡りから逃げるため、ずっと走り続けてきたようなもんだし・・・。
院長は説いた、誠実にやりたまえ、君がそれを見せてくれるなら我々もそれに応えようと。
けれど院長のそんな〝ごたく〟を置き去りにして、黙々と野山を駆け抜けながら少年は考え続ける。
・・・院長なんかにわかりっこないが、おれはいつだってずっと誠実だったし、これからだってそうだ。・・・
そして自分の誠実を貫くため、院長への復讐、それも飛びっ切りのしっぺ返しを心に刻んで走り続ける。
そう、この少年は悔悛しない。
そこが痛快である。痛快ではあるが、読み終えてカタルシスをうるような類の小説でもない。
作者のアラン・シリトーは、ちょうど「怒れる若者たち」の世代である。しかしその主流を成した、中・上流階級のインテリたちとはまったく違っている。小説の内容、題材がそうであるように、自身が典型的イギリス労働者階級の出だからである。
シリトーの主人公たちはみな、抗いようのない閉塞感に包まれている。プロレタリアートとして生まれながらに沁み込んだ貧困や疎外感といったものが、小説全編を暗くくすんだ空気として支配しており、それが登場人物の人生そのものとして映り込んでいる。アナーキィではあっても反体制には向かわない。そこが絶望の根深さであり、だからこそ、この少年の反抗には終わりがないのだ。切ないほどのかたくなさ。
そう、この少年は悔悛しない。
小説はこう締めくくられている。
「おれはこの物語を友人の一人に渡し、もしまたおれがパクられるようなことがあったら、これを本か何かにしてくれと頼んでおくつもりだ」と、そしてその相手は、ずっと昔から近所に住む〝おれの仲間だ〟と。
アラン・シリトー
1928-2010