吉見静江 茅ヶ崎への遥かなる道のり
~ 虚弱児施設 茅ヶ崎学園の夜明け前から ~
「わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、私にしたのである」
〔マタイ25.40〕
虚弱児施設・茅ヶ崎学園(社会福祉法人・茅ヶ崎学園)の創設者・吉見静江は、1927年30歳の時、米国へと旅立った。「興望館セツルメント」が、その事業主任を静江に要請するにあたり、社会事業研究のため派遣したものであった。
そして2年間の留学を終えた1929年、帰国すると同時に興望館初代館長として迎えられ、以降74歳で亡くなるまで、興望館館長として、また厚生省保育課長として、さらには虚弱児施設・茅ヶ崎学園園長として、母と子の幸せを願い、一筋に、ひたすらに献身することになる。
■興望館
「興望館」とは、1919年、東京府下本所松倉町において、
「建物のないのに地面にむしろを敷いて、ござの日覆の下で幼稚園を始め、日曜日には日曜学校を始めた」
というボランティア活動に端を発したものであり、託児、授産、診療などの事業を展開していったセツルメント活動である。
関東大震災によって活動そのものに大きな痛手を蒙りながら、それでもなお寺島町へと居を移し、冒頭のとおり静江を館長として据え、常に人々と生活を分け合い、飢えを満たすといった底辺での働きを続けた活動の拠点である。
静江の館長就任当時、寺島町界隈は周辺地区に比べてもいっそう劣悪な環境にあった。
隅田川より低地であり、雨が降ればたちまち汚水があふれるという非衛生的な土地柄、狭小住宅が密集し、生活困窮家庭が多かったのである。
そしてそのような地域性なるがゆえ、せっかく保育所へ入所させても、病気や事故などによって中途で退所してしまう子どもが多数いる現実(今とは違い、親が意識をもって入所を申請するというものではなく、スタッフが地域を歩いて保護の必要な子どもを集めた)を前に、興望館では何よりもまず欠食児童への給食活動が急務であった。
同時に、料理、裁縫、育児、保健衛生の講習などといった、母親たちへの啓蒙活動、さらに関東大震災直後には、罹災した人々への救済活動、健康相談事業などをも精力的に実施していったのである。
■導き
そしてこれら活動の端緒を開き、原動力となり、支え続けたのが、米国、カナダから布教活動で日本へ派遣されてきていた婦人宣教師、宣教師夫人たちで構成された「在日本西洋婦人矯風会(日本基督教婦人矯風会)」の人々であった。
静江はそもそも、日本語学校教師として生徒である彼ら宣教師やその夫人たちと接していたのだが、その人々が、本来の仕事や家庭生活の一方で、熱心に取り組むボランティア活動の中に、喜びをもった献身と信念とを見るようになる。
自身も学生時代より信仰のうちにはあったが、やがてキリスト者として洗礼を受け、宣教師たちとの交流を深めるうち、彼女自身、これらセツルメント活動に対する神の導きを感じ始める。それまで福祉の分野には何の知識も経験もなかった静江であったが、そういった人々とともにあって、静江の心の中にも同様に、祈りと献身の喜び、使命と情熱が満ちあふれていったのである。
■沓掛学荘
時を経て、太平洋戦争勃発のためそれぞれ退任、離日せざるを得なくなった外国人理事たちは、興望館への最後の奉仕としてキャンプ場取得のための資金調達に腐心し、1940年、軽井沢の地に施設を入手した。沓掛学荘である。
これは館長となって以来、「いつでも誰でも利用できるキャンプ場が必要」という静江念願のものであった。そしてこの地にては、その理想が具現化した学童キャンプ、保育園児キャンプなどの活動が営まれた。
しかしやがて東京大空襲で罹災するに至り、東京での保育をついに休止、本拠をこちらに移す事態となり、戦火激しい中、その日の食料に窮乏しながらも、幼児、学童、後には戦災孤児、浮浪児、引揚げ孤児などを抱えた疎開の家としての役割を果たすことになる。
土地の開墾から、野菜や蕎麦の栽培など、ここでも静江は子どもたちとともにあり、それらを守ることに全精力を傾注した。
(沓掛学荘は、現在、同地にて児童養護施設として引き継がれている)
■再開
敗戦後、東京に戻った静江は興望館再開に奔走する。
夜間診療所の再開に当たっては厚生省に交渉し、各種薬品、器材の配給を受け、また医師、看護婦らの夜食を整えた。保育所を再開し、産院を開設した。
さらには、孤児援護中央委員として戦災引揚げ孤児対策に参画、またララ救援物資中央委員会実行委員として、物資配分に関する全体の立案、実施に当たるなどの活動もした。
興望館では地域のミルクステーションとして配分業務を担い、乳児の健康診断、栄養指導、育児相談などを行った。
(興望館は、現在、社会福祉法人として保育園、児童養護施設、自立援助ホーム、学童クラブその他、幅広く地域活動を展開している)
■厚生省
そんな中、1947年、厚生省に児童局が設置されると、今度はその保育課初代課長に請われて就任することとなった。初の女性課長誕生であった。
米国で学び、かの地の実情に通じていたこと、興望館館長として日本の社会事業についての知識経験が豊富であったこと、そして英語に堪能であったことなどがその理由であったろう。
実際、GHQとの交渉事務にも通訳なしで当たれた静江は、児童憲章の制定に尽力するなど、省内でも広く精力的に活躍した。
■茅ヶ崎学園
さて、こうして厚生省母子福祉課長として12年の任を果たした静江は、停年を前に退官、1959年、神奈川県茅ヶ崎市小和田字浜須賀5,777(緑が浜の現在地)に、いよいよ最後の働きの地を恵まれる。
湘南電車で東京から小一時間、小さな田舎の辻堂駅からバスで10分、周囲には民家も疎ら、潮風が通り抜ける松林の向こうには太平洋がきらめき、『健康を阻害された幼児が毎日の散歩に通うにちょうどよい』と思った。
「虚弱児施設・茅ヶ崎学園」、その「設立趣意書」の「対象とする児童」に、こうある。
イ)ツベルクリン反応が最近陽転したもので発病の危険のあるもの
ロ)結核患者が家庭にあるもの
ハ)発育不良のもの
ニ)貧血、神経質、風邪引き易いとか或いは胃腸の疾患にかかりやすい等の傾向があって医師に虚弱児として診断をうけたもの等、体質虚弱の児童
◎大体、四才から十二才までの児童を入所させる。
7月、敷地2,974㎡、木造平屋建て434.71㎡の本館が、慎ましく、しかし誇らしげに完成した。
玄関、事務所、食堂、園長室、応接室などが「ロの字」を形成する建物、その内側を回廊が廻り、こぢんまりとした可愛らしい中庭を包んでいる。
はじめの一歩は、子ども1人に猫1匹。ここで暮らす子どもたちが“桃太郎のように育て”との願いから、十数本の桃の木を植えた。静江、この時実に62歳、文字どおり“種を蒔く人”、“木を植える人”であった。
(茅ヶ崎学園は現在、社会福祉法人として児童養護施設と保育所(フィートリッヂ緑が浜保育園)を運営。児童養護施設は、設立当初虚弱児施設であったものを、1998年、児童福祉法改正により種別変更したもの。さらに2006年、園舎の全面改築に伴い「サーフサイドセヴン茅ヶ崎ファーム」と名称変更し、現在に至っている)
■遥かなる道のり
昭和の初期、興望館近隣地区では、生活難や過酷な労働によって主婦が結核を患い、それに感染する家族も多くあった。
劣悪な環境の中で放任される子どもたちにも、必然的に虚弱児が多数見受けられた。生活に窮し、発病の危険に晒された子ら。
本来ならきちんとした医療的管理によって健康増進を図らねばならないのに、それが叶わない。且つそのために通常の学校教育を受けるに支障を来たす子も多かったのである。
厚生省を退官する動機が、こうした子どもたちの生活を立て直す場が必要、そしてその中で生涯を共に送ることこそ自分の使命であると、齢60を過ぎてなお思い新たにする静江の情熱であった。
そしてこの思いに応え、支えた周囲の人々の働き、それら無数の熱意、意志、善意の結実が茅ヶ崎学園となった。
人は誰しも、それぞれに山あり谷ありの歴史を持っている。静江もまた、目まぐるしく、波乱に富んだ、激動の人生を生きた。
経済的には恵まれた家庭環境に誕生した静江ではあったが、わずか2歳にして母が病没してしまう。すぐ養女として親戚へ引き取られ、その後しばらくは順調に成長した。
しかし15歳のとき、今度は養父を失う。しかも、自分が養女であったことをこのころ初めて知らされる。
静江は、吉見家の養女だったのである。
長じて、日本女子大学英文科を卒業した後、富山県立女子師範学校および付属高等女学校へ赴任するが、ここをわずか2年で退職、東京へ戻っている。
当時、女性が職に就くこと自体きわめて稀なことであり、事実同級生40人のうち職業をもったのは静江を含め2人のみであった。そんな特殊事情でありながら、なぜ富山へ職場を求めたか理由は定かでない。
いずれにせよ、東京という都会で育った静江にとって、家族、友人と離れ、地域社会、生活文化、風習すべてにおいてまったく異なる地方での生活。女学校から大学と慣れ親しんだ私立の校風から、一転公立の師範学校教師という立場へ。
さらに社会情勢としては、奇しくも富山で発生した暴動が関西各地へと波及した「米騒動」など、疲弊し騒然とした国情とも時期が重なっていた。
そのような、自分を取り巻く環境、情勢の激変に、22歳の静江が順応し切れなかったということであったのかもしれない。
東京へ戻ってからは、母校の日本女子大英語別科の教員として迎えられ、続いて埼玉県立川越高等女学校にてそれぞれ教壇に立つ。しかしこのいずれも短い期間で終えている。
そしてこの後勤務したのが、前述した日語学校である。静江にとって、ここでの教員生活こそ、その後終生を捧げることとなる福祉の道への導き、宣教師たちとの出会いであった。
神の教えに黙して従うユダヤの人々が、長の年月、幾多の試練を乗り越えた旅路の末ようやくにして約束の地カナンを与えられたように、自身の幼い頃の別離、喪失、孤独、長じてからの挫折、犠牲を経、さらには震災、戦禍という惨状の中でたくさんの子どもたちを抱え、その母たちを励まし続けて重ねた艱難辛苦の年月も、この茅ヶ崎の地にてなお力を尽くせよという神の導きであると、静かに、そして深い喜びをもって受け止めたのであった。
吉見静江、ようやく辿り着いた、茅ヶ崎への遥かなる道のりであった。
■ ■ ■
ここに、古びた、しかしガッシリとした茶色い革製の旅行カバンがある。いかにも手をかけて造られたという素性がその重量感から伝わってくる。そしてそのグリップに、同じく古びてセピア色に変色したタグが2枚巻きついたままになっている。
1枚には
「TWA Trans World Airline」
「SAN FRANCISCO,CAL.」
そしてもう1枚には
「U.S. ARMY」
「HAND BAGGAGE」
こちらには手書きで
From: San Francisco
To: Yokohama Japan
Mrs. Shizue Yoshimi
National Leader Program
Project no. 164
Eddy Hotel San Francisco
宛先として
30, 4chome Terajimacho Sumidaku
Tokyo Japan
とある。
80年前の静江が、留学を終え、勇躍帰国の途につくにあたり、ふるさと日本へあてた荷物であったろう。ノートや資料、衣類にお土産・・・。サンフランシスコのホテルで荷造りしながら彼女は、アメリカ生活の思い出、夢や希望、期待も不安も、すべてをこのカバンに詰め込んだに違いない。
1927年、昭和2年の日本では海外旅行すら珍しい中、女性がひとりで渡米する、ましてやそれが留学であるなど、きわめて稀なことであった。しかも日本を発つ時、静江にはまだ就学前の幼い息子がいた。静江は未婚の母でもあったのだ。
最愛のひとり息子を残しての旅立ち。この古びたカバンは、すべてを包み込んで一緒に旅をした。それに巻きつけられた2枚のタグ。単なる荷札に過ぎないその紙切れ、しかしそこに記されたブルーのインクの端正な一文字一文字に、若き静江の、青春の心意気と望郷の念が滲んでいるようだ。胸を締めつけられる。