神奈川・茅ヶ崎の児童養護施設=癒しのための巣づくり

「おばあちゃんの家(韓国映画)」より.

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20141022

 おばあちゃんの家ポスター

しわくちゃの顔
ひどく曲がった腰
歩く姿はほとんど「く」の字

華奢で小っちゃなおばあちゃんは そのうえ 口がきけず字も書けない 無知無教養の人です。

さらに おばあちゃんの家はたいへんな山奥。山奥の村の 最後のバス停からもまだまだ登って行かなければならない トンデモナイところです。
こんなおばあちゃんが そんな山奥にたったひとりで住んでいます。

さて
このおばあちゃんの家へ 孫のサンウがやってきます。
大都会ソウルに住む小学生の男の子。TVゲームやファーストフードに囲まれて育った ひ弱なくせに我がままという 典型的な都会っ子です。お母さんの都合で ひと夏おばあちゃんの家に預けられることになりました。

ここまで観ると(読むと)
『生意気だった男の子が おばあちゃんの素朴さに触れるうち やがて温かい心の交流を持つ・・・』 という〝お定まり〟の展開を予想する人が多いでしょうね。

そう 実はその通りなんです!

エーッ? なんだつまらない?
ええまあ この映画は その意味ではドラマチックでもなく 新鮮味には欠けます。

でも観てしまうんですよ 最後まで。

その最大の要素は 何といっても「おばあちゃん」。

実は このおばあちゃん役はまったくの素人だそうです。
映画の中で サンウの我がままし放題に翻弄されるわけですが そのたんびにこのおばああちゃんが 〝少し〟困ったような 〝少し〟悲しいような表情を見せるんです。そう この〝少し〟というところが絶妙で あざとくなく 素人ならではのリアリティーを醸し出しています。

サンウにとっては 言葉も喋れないなんて 無能な人間としか思えない。しかも暮らしは貧しさそのもの。
そのあまりの貧しさに 最初のうちサンウは おばあちゃんの作る料理なんて不潔で食べられない。家から持ってきた缶詰ばかり食べて過ごすという 残酷な傲慢さを見せます。
あるいは 持ってきたTVゲームの電池が消耗してしまった時 なんと!
 寝ているおばあちゃんの髪から櫛を盗んで 村でお金に変えようするが失敗する(店のおじさんにバレてしまう)など 要するに 脆弱な基盤の上で 利己的で利便性至上主義に突っ走る現代社会の象徴として サンウが描かれています。

一方のおばあちゃんは
ただでさえ現代文明から取り残された山奥の暮らし それに加え無学文盲ですから サンウの要求と募る苛立ちにはただ戸惑うばかりです。
それでも 孫の要求になんとか応えようと つたない表現や乏しい想像力で黙々と尽くす そのトンチンカンな行動と あの表情。これが実におかしくもセツナイのです。

 

サンウのわがままぶりを示すエピソードをひとつ。

ある日サンウは 「ケンタッキーフライドチキンが食べたい」と言い出します。
でも おばあちゃんはケンタッキーフライドチキンを知りません。
サンウは
「なんだ フライドチキンも知らないのか! チキンだよ! チキン!」とおばあちゃんをなじり 駄々をこねます。
困ったおばあちゃん 何を思ったか タンスから自分の着物をひっぱり出してきて それを持って山を下りてゆきます。

そして次のシーン

一羽のニワトリをぶら下げたおばあちゃんが くの字に曲がった体でエッチラオッチラ 山道を登って帰ってきます・・・。

そうです
「チキン」と言われたおばあちゃんは とりあえず「ニワトリ」を手に入れてきたのです!
村へ下りて自分の着物と物々交換してきたのでしょう。おばあちゃんは それを鍋で茹でてサンウの前に出します。

丸裸になったニワトリ 丸ごと一羽!

一瞬たじろぐサンウ・・・。

しかし
「こんなのフライドチキンじゃない!」とばかり蹴飛ばしてしまうのです。

 

 

映画は そんな二人の日々を淡々と描いて進みます。
詩的な映像。

しかし過度に気取ることはなく 山の暮らしをさりげないタッチで映し出してゆきます。逆に サンウの悪童ぶりが表面的な点 また省略技法が過ぎる感が無きにしも非ずですが いずれにせよ このおばあちゃん役の起用を含め テーマに対する表現を重くしないという演出意図が感じられます。
(最期の別れのシーンに至るまで 全編を通じて突っ込んだ描写はなく 涙を誘ったり 感動を強いたりしていない)

さて
そんなサンウもやがてソウルへ帰る日が近づいてきます。
やって来た頃はさんざん悪態をつき放題だったサンウですが 今ではおばあちゃんへの親愛の情も深まり 自分がいなくなった後のおばあちゃんを気遣うまでになっています。なにしろ おばあちゃんは年寄りだし、山奥の一人暮らしだし 言葉も喋れず 字も書けないからです。

そこでサンウは考えました。
おばあちゃんの代わりに「絵手紙」を描いて置いてゆこう。おばあちゃんが困った時 ただそれを送ればいいように いろんな場面を描いておこう(映画の途中、おばあちゃんが体調を崩して寝込んでしまうシーンが描かれている)。

サンウが絵を描いています。
おばあちゃんが 苦しそうに 頭に氷を乗せて寝ている絵です。そしてそこには 「カラダガイタイ」「スグキテホシイ」などと書かれています。
困ったことがあったらこれを送るんだよ ボクがすぐ来るからね と。

・・・・・・・・・

どうです? これ〝真髄〟でしょう?
古今、洋の東西を問わず使い古された〝パターン〟であるのは やはりこれが 子育ての真髄 人間関係の真髄 いつの世も 人がそれを深いところで希求しているからに他なりません。

おばあちゃんは ただ自分のやり方でその日を生きているだけです。
たまたま預かった孫サンウの数々の傍若無人ぶりに翻弄されはしますが

叱るでもなく
拒絶するでもなく
特に優しいとか
あふれる愛をそそぐとかいう風でもなく
ただただ食事をつくり
洗濯をし
淡々と世話をする。

おばあちゃんと おばあちゃんの家には何もない。あるのは あまりにもささやかな暮らし。
なのにいつしか サンウの心には慈しみが芽生える。私たちが心のどこかに抱える 切ないような憧憬が描かれている映画です。

(どっかのアホどもが謳ってる ”児童の最善の利益のために”なんて 恥ずかしくないかっ!?)

 

さて いよいよ映画はラストシーンへ。

お母さんが迎えに来て サンウがソウルへ帰る日です。

村の停留所。

サンウとお母さん それに 見送りに来たおばあちゃん。

やがて がたがた道を上ってくるバス。折り返しのために ぐるりと大きく旋回して 止まります。

 

しばしの静寂。
交わす言葉はありません。

 

やがてサンウとお母さんがバスへ。
二人を乗せて バスはおもむろに ゆらゆらと揺れながら 今来た道を引き返してゆきます。

 

ひとり取り残されるおばあちゃん。
くの字に腰をかがめ
眩しそうに顔をしかめて見上げる
ちっぽけなおばあちゃん。

 

・・・と

バスの最後尾の窓にサンウの姿が。
おばあちゃんに向かって
円を描くように
そっと胸をなでる仕草(手話?)。

 

字幕に

〝ごめんね〟

 

 

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