神奈川・茅ヶ崎の児童養護施設=癒しのための巣づくり

20070901-専門職という不思議

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2007.0901

 

■茅ヶ崎ファームでは、“専門職”を配置していません。中間管理職も置いていません。むしろ職員の専門化、専任化はできるだけ排除したいと考えています。何故なら、それらは働く人をして職業化せしめることに他ならないからです。

  • “癒しのための巣づくり”

これが、茅ヶ崎ファームのトータルテーマ。

そしてサブテーマは2本。

  • Ⅰ “子ども6人の家庭舎”
  • Ⅱ “緑をまとう暮らし”

です。
(具体的には、サイト内「デザインコンセプト」で述べています)

茅ヶ崎ファームの第一義は、
“安心と休息”であり、
“生活実感ある暮らしをもって癒しをもたらす”ことです。

子どもたちが穏やかであることが願いであり、“暮らすこと”が“育つこと”と捉えています。

養育者の“全人的かかわり”

子育てとは、生きるとは、
養育者の全人的かかわりが重要です。人と人とが、手触り肌ざわりを感じながら向き合う暮らしです。ここは現代社会でもっとも欠損している部分です。

茅ヶ崎ファームは家としてありたい。

むろん、本当の家ではありません。職員は親でも兄弟でもありません。子どもたちは、誰一人望んでやってきたわけでもありません。しかしいやがおうにも、子どもたちにとって茅ヶ崎ファームは第2の我が家、もうひとつの家族なのです。なぜなら、そこに暮らしがあるからです。

茅ヶ崎ファームは、子育てする場、暮らしを紡ぐ場。食事づくりから、寝起き、家庭調整、学校対応、通院・・・、その子のすべてに、自分のすべてをもって当たる、これが職員たる命題と考えています。

これに対し、子ども(人)をパーツに分け、パーツとして取り出す、そして人を機能(職業)としてそれぞれのパーツに対応させようというのが、現在の福祉(現代社会)のめざしているところであり、職業化=専門化=専任化とはそういう考えを具現化する流れであるわけです。

「養護の場」から「治療施設化」への流れです。

その流れの中で、児童養護施設の子は、ケイスとして“分析、評価”され、“計画”に取り込まれます。施設の専門的機能や、職員の専門性を求める昨今の趨勢は、「ケガをした子どもは外科の専門医にみてもらえ」という考えをそのまま当てはめたものであり、「原因と結果の理論」の呪縛から逃れられていません。

これは、一方で“小規模化”、“家庭的養護”と謳っておきながら、他方では“外科の専門医でもあれ”、と言っているようなものです。

「この人は心理を見る人」、「この人は家庭調整する人」、「この人は職業を指導する人」、「この人は調理場の人」、「この人は事務をする人」、「この人は洗濯する人」、この人はこの人はこの人は・・・。たくさんの専門家に囲まれた生活。

楽しきかるべき子ども時代を、家庭から離れて過酷な状況下にある子どもを、“専門家集団”で囲んでどうしようというのでしょうか。“人間的絆”、“人肌”こそ必要とする子どもが、組織化され、分業化、時間割化、職業化された「機能的である職業人」との関係性の中でノーマルに育つのでしょうか。茅ヶ崎ファームがそうである必要はありません。

(福祉施設の職種の中には、「直接処遇」、「間接処遇」という、訳の分からない奇妙な言い方があり、栄養士、調理員は「間接処遇職員」なのです! 子育てにおいて食事はもっとも重要な営みであるにもかかわらず、それをつくる人たちは「間接」です。そして調理をしなくても保育士、指導員、看護師は「直接処遇職員」なのです! なんてバカな! 誰が考えついた概念でしょうか。)

茅ヶ崎ファームは“家”でありたい。家であるべきです。本当の家族、本当の兄弟ではなくとも、いや、だからこそ、せめて「家のような暮らし」であるべきです。

“子育てする家”で働く人が職業化することは、“人が暮らす”、“人が生きる”という基本から乖離してゆくだけです。

“職業化”されることで、職員自身が自分を“パーツ”、“機能”としてとらえ、仕事を“時間割化”する、その子の人生も時間割化するという悪い“職業化”へ向かうことです。

そもそも、家族崩壊、虐待、ドメスティクヴァイオレンス、引きこもりなどなど、現代社会の抱えるさまざまな病巣は、我々が望んだ生き方が生み出した構造的病理であり、法整備やキャンペーンなどで解消できるものではありません。いわばメニューの展開、パーツの陳列に過ぎないからです。

「難しい問題は専門家に解決してもらおう」 それも幻想、もしくは責任転嫁であり、何でも消費の対象としてしまう悪癖でもあります。

地球温暖化問題でも明らかなように、人間社会が生き方そのものを考え直さねばならない。みんなでゴミを散らかし放題しておきながら、みんなでそのゴミをどうしようかと悩んでいる悪循環。“ゴミを出さない暮らし”を心がけなければいけないのです。

“家族再統合”の号令による弊害も出ています。

家庭支援の専門職が法制化されたため、一部に、家庭復帰の“実績”を上げることが至上命題となってしまい、児童相談所がそれを急ぐ。結果、ケイスワークが雑になる、という本末転倒の現象が起きています(ごく一部ですが)。

さらには、児童相談所が抱えきれないほどのケイスを抱える。児童養護施設が満床状態。“早く出して、ともかく入れる”という強迫的状況に陥る。これもケイスワークを雑にする要因となっています。

ケイスワーカーが、一人の子どもを丹念に見る余裕がなくなり、悪い意味で職業的に処理するようになってゆく危険性を孕んでいる。

このような観点から、職員の職業化(=専任化)、施設の治療施設化(施設を機能として捉えること)に、私は異を唱えるものです。暮らしを紡ぎだすことこそ最重要課題であるにもかかわらず、現在、その配置すら決して潤沢とはいえないからです。

めざすべきは、茅ヶ崎ファームが“家”としてあり、その“暮らし”で癒しをもたらす。強いて言うなら、“生活者としての専門性”、“親業”といったような範疇のものです。

 

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